北風
脱原発の署名の用紙をヨガ教室に置いたら、思わんたくさんの人が署名して。急いで枚数を増やして、また置いた。
お昼を食べる時、同じ主旨を持つ知人に、署名は集まったかと聞いたら、
「“俺は別に反対派じゃないもん”って連中ばかりで… 」だそうだ。
いろんな人がいるもんね。しょうがないよ。賛成にしても、反対にしても、真剣に考えた上の主張なら。
従兄弟が、突発性難聴になり、けっこう重度で入院した。今日メールをもらって、片方の聴力が完全に失われ、もう治療不可能だと言われたそうだ。
聴力を失う…。
その一行を読んで一瞬固まった。
突発性難聴はよく聞く話しなので、時間が経てば治るかと思ったら、まさか…。
従兄が、メールで、今の彼が耐えてる突発性難聴の症状を教えてくれた。
聞こえない分、脳内の騒音のようなのが、24時間止まらないで聞こえる。そのため睡眠薬を飲まないと眠れない。
「静かになりたい、たとえ30分だけでもいいから」
…。
涙を堪えて、わたしはお寺の仏様のところへ走る。
拝む、拝む。和尚さんをお願いして拝んでもらう。
それ以外わたしは何ができるんでしょうか。
お守りを買って送るねとメールをしたら、
従兄はとても喜んでた。
「頑張るよ」と、勇気が湧いて来たようだ。
わたし、よく泣かなかったね。やっぱりただで歳をとっていないね。自分のことをそう感じた。歳月って、人に逞しさにも与えてくれるんだ。
夕方、ふみを塾に入れたら、郵便局に行こう。
「ふみくんのお母さん」
ふみたちのお部屋を出ようとする時、担任の先生の声が…。
また?もう勘弁してくださいな。今日はそういうどうでもいいことを聞ける状況ではないですから「はい、なんでしょう」
「あのね」
今日は歩いて小学校まで、そこで小学生たちと一緒に人形劇を観賞したという。
で、今日のふみの問題点は、みんなが、じーっとしておとなしく観ているのに、ふみくんだけ、興奮してくると、膝立ちしたり、ワハハハになったり、注意しても聞かない…。
だから?なにが?
わたしにはこれは、5歳の子供には、何か問題でしょうか?
人形劇が楽しくなってきて、膝立ちになるのは、そんなにいけないことでしょうか。
いつもピリピリして、緊張して、それこそすぐ興奮してるこのF先生、わたしは、正直好きになれないわ。
年中文句を言って。この前Nちゃんのお母さんも、個人面談で、Nちゃんの問題点(悪口?)ばかり聞かされましたという。
このF先生、もっとゆったりした心構えはできないのでしょうか。
もっと余裕あったらどうかしらね。
確かに真面目で一生懸命には違いないでしょうけど。ぎしぎし、きびきび、見ているだけでも疲れてしまう、短期間でも。
保育士より、区役所で、朝から晩まで厳密な書類を作ったほうが、F先生のショウに合うのではないかしら。
一日疲れて、我が子をお迎えにきて、F先生の目を赤くさせながらの“問題行動”報告、正直、もうあきれました。もっと言えば、うんざりです。
と、口から出た言葉は、いつもと同じく、「そうでしたか、はい…」
日が暮れると共に、北風が出て来て、空にも黒い雲が流れる。
なんだか怒りが湧いてきて抑えきれないほど。
うちに帰って、大きい荷物をおろし、ふみの通園カバンをソファーに向かって、投げ出した。
この勢いで、保育園に行って…という念頭を、最大限の努力で抑え、ふみの塾のカバンを持って、ふみの手を握りしめ、向かう先は、塾の教室。
北風がビュービューと吹く、アスファルトは街灯に照らされて蒼白く、余計に寒い。大きな落葉がサラサラと音をたてて目の前で舞う。
立ち止まって、わたしは、しゃがんでふみの肩を持った。
「いい?ふみ、F先生のこと、別に気にしなくていい。先生だから必ず正しいとも限らない。ママは、パパもだけど、ふみはこのままでいいと思う。好きよ、ふみ。このままのふみが好きだから。変わらなくていい、あの先生の言うことなんか」
「うん」
「気にすることないから」
「うん」
「だけど口にだしちゃダメよ、心にわかってれば、それでいいから」
「うん」
「ふみはなにも悪くない。気にすることないから!ママは言われたって、全然平気よ。いくらでも耐えられるから。」
街灯の下のふみの顔は、ちょっとびっくりしてる。
あ、わたしの言葉は、ふみに向かって言ってるより、わたし自身に聞かせてるだと悟った。
考えれば、そもそもふみは、今までF先生の指摘や批判、気にしたことがない。
よく発する否定的な言葉にも、
言うことを聞かないから、大好きな悟空の役から外すことにも、
ふみは気にしてなかった。
叱られて翌日、先生と普通に喋り、
セリフ一言の分身悟空でも、ふみは楽しそうに練習してた。
そう、気にしてるのは、わたしのほうなんだ。さっきの言葉、そのまま自分に言い聞かせたいだけだから。
F先生の毎日のような告げ口、しんどくなったのは、わたしだけ。
ふみは、F先生の、腕を掴もう手から逃げるの、楽しくてしょうがないんだ。
気付いたら、わたしは涙がぼろぼろと落ちてきた。
「ふみ、大好きよ、なにも心配することがないから。あとせいぜい三ヶ月ちょっとだから保育園は、小学校に上がったら…」
「でも保育園も楽しいよ」
街灯の下のふみは笑った。
F先生が嫌いと思うのは、わたし。ふみじゃない。
なにをやってるんだろう、わたし。
急いで涙を拭いて、ふみの手を繋ぐ。
「ママ」
「うん?」
「なんか食べ物ないの?これから塾だからさー」
「あ、はいはい」バッグからおやつを出して、ふみに渡す。
「おいしい」ふみは幸せそうにかじる。
ふみの手、あたたかいな〜
本当に寒くなった。
明日朝、この冬の一番の寒さだそうだ。
「ママ、夕飯はなに?」塾から出て来たふみは真っ先にそれを聞く。
「ね、ママ、今日、漢字をやったよ。123456。5って、こう書くんでしょう」ふみは指で空中に書いて見せる。「あ、いいや、うちに帰ったら書いて見せるね」。
夕飯は、知人から頂いた豚骨ラーメン。またおいしそうに食べるふみ。
お腹がいっぱいになって、漢字で123456を暗記で書いてくれた。