シールがない

この前、Mさんのお店で、着物を羽織ったままお話しをしている時、
一人やや年配の女性が入ってきて、「はしょり、ちょっと長いじゃありません?」とわたしの着物に指をさして。

別に帯もまだ締めていないですし、というか、まだ途中だが…。

「はしょり長いと、野暮ですね、ま、逆に短いと、借りた着物?との感じになるからね…」

適当に返事をするわたしに、Mさんはちょっと困った顔をして(というより、わたしが困った顔をしたに違いないから)、その女性にいろいろと声をかけたりして。


女性は帯締めを選んで買って、出ました。

「なんかね〜困りますよね」とMさんは。
「でもありがたいですよ。はしょりの長い短いの言われが聞けて」とわたしが。

「でも、こういう方がいっらしゃるから、今の人はどんどん着物を着なくなったんですよ。ま、それだけが原因ではないですけど。でもね、着物が好き、好きなように着ればいいじゃない、これはおかしい、あれはいけない。そういうのばかり言うから、着物がどんどん非日常的になってしまうんですよ…」

そういう方たちは、着物を、特別なものと思っていらして、
着物は、所詮着る物ですから。

正絹でだろうか、ポリエステルであろうか、好きな服を、自由に着ればいいんです。洋服と同じくです。



わたしが着物を着ているのを見ると、大概の方は、「これからなにかありますか?」「これからどこかに行くんですか?」と聞いてくるのです。

いいえ、好きだから着ているのです。
ただ、好きだから。



今日は、ふみのクラス、作文ノートが、ふみの以外、みんなに返されました。
N先生はふみに、貼りたいシールがないから、明日返します、とおっしゃったそうです。

シールがない。それとも、適切なコメントが、見つからない。でしょうか。

公務員であるN先生は、“正しい”コメントを出さなくではいけないでしょうね。
××産のももは、安全でおいしいですよ。とか。





寒くなく、暑くなくのこの時期、鎌倉に行きたくなります。
そろそろ、小津監督さんのお墓参りもまた行きたいですし。


小津映画を観ていると、
“暗黙の了解”、は、日本の文化、日本の美学とも言えると感じます。

言わぬが花。(言っても建前。本音は、誰かが傷つくことの恐れが)

言葉になさじ、胸より、胸に。

以心伝心。





「パパ、今日はゆずを買った?」とふみが。
ふみ、冬至立冬を間違えてるわよ〜