蓮
一日中強い風です。
さくらの細い枝は、花が付いたまま、東へ西へと転がって。
知人と小津映画の話をして。
知人も小津映画を見尽くして、昔に。
知人は、「 小津映画、淡々と家族の日常を描いていて。特別な大きな出来事があるわけではなくて。
娘の縁談話だったり、亡くなって法事で集まったり。 」
確かに確かに。
小津映画の魅力は、ストーリーではないですね。
小津映画を、“小市民のしあわせ”を描く映画だという評論家がいます。
小津映画、一言凡庸な小市民のしあわせ、
決してそうじゃないですね。
一見、普通家庭の、ありふれてる日常、
けど、味わえば味わうほど、出てくるその侘び寂びの美、慎ましさ、悲しみ、心に響くのです。
表情から仕草から、声まで、激しい起伏はないです。
だから悲しいんです。だから心に響くのです。
“燃えて生きる”のが、いかに野暮ったいか、改めて感じさせるのです。
淡くて、水の如く。
「泥中の蓮、この泥も現実だ。そして蓮もやはり現実なんです。そして泥は汚いけれど蓮は美しい。だけどこの蓮もやはり根は泥中に在る。
私はこの場合、泥土と蓮の根を描いて、蓮を表す方法もあると思います。しかし逆にいって、蓮を描いて泥土と根を知らせる方法もあると思うんです。
戦後の世相は、そりゃ不浄だ、ゴタゴタしている、汚い。こんなものは私は嫌いです。
だけれどもそれも現実だ。それと共に、慎ましく、美しく、そして清らかに咲いている生命もあるんです。これだって現実だ。」
《晩春》公開直後、小津がインタビューに答えた言葉です。
また違うインタビューで、小津は、
「いかに現実を追求しても、私は糞は臭いといっただけのリアリズムは好まない。私の表現したい人間は、常に太陽に向かって少しずつでも明るさに近づいている人間だ」
わたしは小津が好きなのは、
やはり、小津のこういう考え方、こういう好みでしょうね。