盂蘭盆

Sさんの命日は本当はいつなのか、誰も知りません。ですから彼の実家にお花を送るのは、旧盆にしています。


Sさんが行方不明になったと聞いてから、遺体で発見されるまで、ちょうど半年でした。
あまりにも変わり果てた姿との状況を聞くだけで、私は背中から寒くなってきたのを今でもはっきりと覚えています。


Sさんとは何年か前から面識があり、その後、ある旅行でご一緒しました。無口でちょっとシャイなSさんは、植物に詳しかったです。あとで聞いたら、昔の職業は植物関係だったそうで、Sさんは、植物という温和なイメージでした。

Sさんはバスの移動中に、ずっと地図を眺めていました。朝、ホテルの朝食は食べないで、一人で現地の人の行く市場に行って、地元の人と一緒に朝ごはんを食べて来たという彼の顔はとてもうれしそうでした。


7キロともいわれる山道をみんなでだらだらと歩いてました。
Sさんはカメラを持って、路傍の植物や珍しい昆虫などを撮りながら、時にはその細い道で歩く人にもカメラを向けます。


木洩れ日の間に出没自在の長身の彼を見ていると、ふっと、この世のものに見えない瞬間が、ときたまありました。


旅から帰ってきて、Sさんから一枚の写真が送られてきました。
あの山道での、私の後ろ姿でした。手の日傘はしまってあって、同じく木洩れ日を背負っていて、なかなかいい写真でした。


友人にその旅のビデオを見せたら、彼女は、ビデオの最後に、Sさんがカメラに向かってしゃべっているシーンはとても印象的だったといいます。
「いい雰囲気の方ですね。品があって、穏やかそうで、本当にいい」と、彼女はしみじみに言ったのです。
好きな人がいる彼女は、ただ人間同士としてSさんのことに好意を持って、心から褒めていたの思います。


この言葉をSさんに伝えることができなかったことが、今の私にとって、一番の悔みなのかもしれません。
手紙でも、ハガキでもいいですから、一言伝えたかった、伝えればよかったと思うと、悔しくてたまりません。


別に伝えたらからって、その衝撃な結果を変えられたと思わないですが、せめて、せめて、最期の彼が、もしその一言を思い出すことで、少しでもこの世からの僅かな温もりを感じていただけたんじゃないか…。
未練はたくさんあったと思う、記憶もたくさんあったに違いない、その中に、会ったことのないけど同じ人間同士が、自分のことを好意と思ってくれたこと、悲惨な状態の彼に僅かな温もりをもたらしたのでは…


悔しいのです。なんにもしてあげられないことが。
悔しいのです。伝えるべきことすらしていなかったことが。

……


今日、35度の暑さの中でふみと手を繋いで歩いている途中、道端で死んだ蝉を見つけた。
仰向けになった蝉の周りで、蟻たちが忙しく蝉の体を少しずつ下ろし運んでいる。


ふみと立ち止まってしばらくその光景を見つめていた。

「ママ、せみは、もう悪いことしましぇんからと言ってるよ」
「言ってない。蝉、もうなにもわからないから」
「言ってるよ、もう悪いことしましぇんから」ふみの顔少し苦しそうだった。


ふみよ、この世は、無常である。仏様はそう教えたそうだ。
無常。
悪いことしないからって、人間は死ぬんだよ、いつか。
かわいそうな形か、穏やかにか、いずれ、人間は死ぬ。

だって、この世は無常だから。


今日は満月。旧暦の七月十五日。本当の盂蘭盆です。

窓からコオロギの鳴き声が聞こえてきています。