午前、出かける前に、「忘れ物してないかな」と言いながらバッグを覗いてたら、
「財布は?携帯、タオルは?」とふみが。
「OKOK」


今日はSさんのお見舞いに、少し離れてるところへ、地下鉄を乗り換えたりして行くんだ。


駅に着いて、あー、Suicaを忘れたー、バッグをチェックしたはずなのに…。

Suicaがないと、一々料金を調べたり、切符を買ったりしなくちゃ。
Suicaって、ありがたいものですね。


蒸し暑い中、ボトルの水をあっという間に飲みほして、知らない駅のトイレにふみを連れて行く。
さきに済ませたふみは外でわたしを待ってる。
「ママいる?ふみもいるから」
「ママ早く出て、ママ、ママ」と、今日は珍しくずっと言ってる。
「ママ〜ママ〜」とふみの泣き声が聞こえてきた。
どうしたのよ。

出てきてふみを見て見ると、ほんとうに涙を流してる。「マ、ママがいないから、だって、いないから」まだしくしくしてる。

「ごめんごめん」、本当に泣いてると思わなかった、ふさげてるかと思って。

落ち着いてきたふみに、なんで泣いたのと問いだら、
「え?だって、こわい人が入って来たもん」
「え〜どうな感じの怖い人?」
「う…ん、こんな」ふみはベロを出して、白目を見せる。
「ハハハハ、嘘でしょう」


「きのう、怖い夢を見たの。窓からこ〜んな角が入って来て、目はこ〜んな大きくて」
「怪獣を見過ぎよ、だから寝る前にそういう本を見ちゃダメだって、ママいつも言ってるのに」
ふみはウルトラマンが好きだけど、やっぱり怖いからね。少なくとも寝る前に読ませるものではないといつも思う。


横浜市営地下鉄に乗換、やっと目的地に着いた。


もう昼近くなので、駅前でまず昼食を摂りました。

広場でなにかイベントが行われている。



鐘の音が鳴って、あ、教会での結婚式だ。

これは縁起のよいこと。幸せのお裾分けを頂く。

お花屋さんによって、Sさんに元気をつけるために、大きいひまわりを買って病院へ向かう。




Sさん、見た目は緊急入院直前と、さほど変わらない様子で一安心。

面会室に移動する。ふみはSさんの手を繋いで、毛布を持ってあげたり、点滴を押したりしてた。

Sさんは「ふみちゃんはやさしいね、ふみちゃんに会って、元気になったよ」と、ふみにジュースを買ってくれる。


窓側のテーブルを選んで、三人は腰をおろした。


Sさんは、小さい声で、
ぼくは、遺影もう用意して、覚悟はできてる。
でも、死ぬのはやっぱり…、こわいな、死にたくない。
Sさんは声を詰まらせる。
もう脊髄にも肺にも転移してるから、もうそう長くないかな…
Sさんは、泣いた。


そんなSさんの話しを、わたしはただただ聞いて、自分から発する言葉はなく、というより、何の言葉も頭に浮かばない。頷きはあるものの、相槌すらでないまま、ただSさんの話しを聞いているわたし。


2、3年前かしら、ある日Sさんに、「奥さん、私はガンです」と突然言われて、その時も、何も言えなくて、ただSさんの話しを聞いていた。
その後のいつだったか、Sさんは自分のドマラのような人生を語ってくれて、それにも黙って聞ているだけのわたしだった。


Sさんが泣いている時、笑顔のような顔になってるせいか、ふみはあまり気づいてなかった。Sさんの膝に載ってきて、Sさんの無精ひげが生えてる顎を触る。


バッグに入ってるカメラを取り出し、シャッターを押す。Sさんは嫌がらなかった。レンズの中、ふみもSさんも笑顔だった。



病院を後にして、「もっといたかった、眠いから、Sさんのあのベッドで寝たかった」とふみが。
確かにふみはさっき、勝手にサンダルを脱いで、Sさんのベッドにあがり、お布団まで勝手にかぶってた。


「あ、セミだ!」、ふみの指差しの少し高いところに、蝉が止まっていた。


こんな立派な姿なのに、土から出て、ただ一週間だけの命だものね。

「ぼく、触れるよ、保育園のセミも触ったから、あ〜届かない、マ〜マ、聞いてる?」


今日は32℃だそうだが、湿度が高く、風は少しもなくて、異様に蒸してる。



帰りの車内、ふみは眠った。
近くなってから、ふみを起こして、最寄駅ではないが、降りて、歩いて帰路へ。

すごい勢いで鳴いてるセミの姿を探そうとしているふみ。



パパは一泊二日の出張でいない、夜、ふみはパパと長電話をして、「セミ、ぼくがさきに見つけたよ」と話した。