名前

父親の葬儀に、母は、姉と私に相談して、中国での葬儀に、かならず流されなければならない「哀楽」という定番曲はかけないことにしたのです。


「哀楽」はとても悲しくて重くて、息苦しいほどのメロディです。
普段の時も「哀楽」を聞くと、誰でも暗くなります。葬儀なんかに流れると、それほど辛くなくとも、つれられて涙が溢れるのでしょう。だから母も姉も私もその曲が嫌いなんです。まあ、好きな人はいないでしょうけど。


私たちは、父親の葬儀に哀楽を使わないと決めたのは、嫌いだからだけじゃないんです。葬儀に哀楽を流すという習慣は、私たちのものではなかったのですから。


母は、せめて、父の最後、本当の“最後”に、よその人たちの習慣を従わないことにしたかったのでしょうか。


でも静かな葬儀はあまりにも目立つことになりますし、来てくれた人たちも異様だと感じることを考えて、何かの曲をかけないといけないのは、わかっています。


私たちは、父親の葬儀に「私はモンゴル人」という歌を流すことに決めました。


この歌は、私たちにとって心が震わせられる歌でした。
とくにサビの「これがモンゴル人、故郷を愛する人たち」のところを聞くたびに、目頭が熱くなるのです。自分の体に流れている血を確認することができる時でもあります。


でも、この案を聞いて、賛成してくれる人がいないのが、私はびっくりしました。
私たちの決めたことは、こんなにいけないことなのかな、こんなに危なっかしい匂いのすることなのかなと、初めて私は気付き、そして悲しくなりました。


近所の親しい人おばさんに「それはよしたほうがいいじゃないですか?」と言われた母は、
「どうして?」と一言静かにいうだけでした。
「どうしてって、だって…。とにかくしないほうがいいと思うわよ」
悲しみと寝不足で唇が紫っぽい母は、ただ植木鉢を見つめて、何も答えませんでした。


父親の学生が来ました。
「奥様、それはどういうお考えなんでしょうか。私は考え直したほうがいいと思います」
「どうして?」母の静かな一言でした。
「葬儀に、たくさんの人が出席する予定です。ウエのほうからもお花が届くことになってます。北京からも…」
「だから?」と母はやはり静かに言いました。


学生は、少し黙ってから
「だから、注目されている場所でもありますので、“私はモンゴル人”というのは…。自分は、やはり“哀楽”を…。そのほうがいいと思います」。
「“私はモンゴル人”にします」
母の声は弱々しいが、少しの迷いも妥協の余地もなかったのです。
母はその一言を置いたら、植木鉢の手入れをし始めました。
「は、わかりました」と学生は出て行きました。


葬儀の間に「私はモンゴル人」の歌をずっと流すなら、カセットテープに両面いっぱい録音するしかないのです。
けれど、うちはそういうダビングできるテープレコーダーがありませんでした。誰かに頼まなくてはならないのです。
おかしいことに、誰に頼んでも、そのカセットテープをもってないとか、そういうテープレコーダーが持ってないとか、いう答えしか返って来なかったです。
そう答える人が、大抵視線を合せようとしないことに、私も驚きました。
でも私も、その歌をする考えを変わる気持ちは全くありませんでした。だって、母があんなに落ち着いて、あんなに動揺なく、あんなに…、だもの。
最後に同級生に頼みました。そういう事情を知らなかったので、こころよくやってくれました。


父親の葬儀中、「私はモンゴル人」がずっと流れていました。
体調を崩した母親のかわりに、姉が喪主の挨拶をしました。
「父親は自分のモンゴル民族を深く愛していました。」と姉は落ち着いた声で言いました。
深く国を党をではなく、自分の民族を、と。
私はその瞬間顔をあげて、会場の高い天井を見つめました。
茶色の天井には、なぜか迷い込んできた風船が一個ありました。
小さくジャンプして、出口を探しているようです。


「父親は自分がモンゴル人ということを、つねに誇りに思っておりました…」と姉の言葉が聞こえてきました。
そうか、誇り…。そばにいる母親はこの時、深い溜息をつきました。




私たちの名前は、モンゴル文字ではなく、発音に宛てた漢字を付けて、漢人と同じくしなくてはならないのです。
父親方の名前は、長い苗字が付いてます。由緒のある苗字らしいんです。
でも普段の生活に、その苗字を使ったことがありません。
漢人の名前は、フルネーム二つ、三つ文字が普通です。
その中で、長い苗字を付けては不便なのか、もっと違う理由があるのか、それとも、そもそも自分たちの苗字は忘れなければならないものなのか、私にはわかりません。


自分も苗字がある、その苗字は何と言い、どう書くのか、どういう意味なのかは、物心がついてだいぶ経ってから、初めて父親から聞きました。
こんな長い苗字だなんて、みんなにバレたら恥ずかしいと思いました。つけていないのは、私にはちょうどよかったのです。


知っているモンゴル人のなかでは、自分の苗字の頭文字を発音当ての漢字にして、いかにも漢人っぽく名前をするのです。たとえば、「ボルジギン」という苗字を、「白」あるいは「包」の当て字にします。ほかに「陳」や「王」といういかにも中国人のような苗字もよくありました。


父親は、家族の苗字は大事に仕舞って、姉と私に、苗字なし、下の名前だけの名前を付けてくれました。
姉と私の名前を三つの漢字ですが、使った漢字は、中国の「百家姓」にない字ですし、あきらかに漢人らしくないものでした。


姉の名前は、「みやび」の意味ですが、当て字に「瀚」という中国人あまり女の子に使わない字を使いました。
父親はなぜあえてこういう名前の“常識”を外れることをするのか、私には理解できなかった。父親は、浩瀚という字を、姉に志を大きくしてほしいとだけ言っていました。
姉は自分の名前をとても気に入っています。


父親が私に付けてくれた名前は、「なんの拘束もなく、気のままで自由自在である」という意味の言葉でした。
父親は、私に、俗世界に拘りなく、自由の心を持って、のびのび生きてほしいと思ったらしいです。


けど、私はその名前をずっと気にくわなかったのです。
周りの女の子に、可愛いらしい名前や時代感のある名前ばかりで、こんな発音こんな意味の名前が目立ちすぎますし、おまけに、「痕」という字を使っていました。
私はこの字を見て、「痕跡」か「血痕」しか思い浮かばないです。イヤでイヤでたまらないです。
どうして父は私にこんな字付けてくれるのか、私は理解しがたかったのです。父に聞いても、毎回ちゃんとした回答が貰えないのでした。


そろそろ小学校に上がろうとする時、私はもう黙っていられませんでした。
だって、小学校に入学すると、名前はもう、そう簡単に変えることができなくなります。
私は一生この何の痕跡かわからない「アト」を背負っていかなきゃならないと思うと…。


「お父さん。役所に行ってくれませんか?私、この名前イヤなんです。名前を変えてください」
「どうして?」
「だって、ヘンですよ。こんな名前の人がいないですもの」
「いないんだからいいんじゃないの?名前だから、みんな同じなら困るんでしょう」
「そうじゃなくて、同じにしてほしいと言ってません。せめて、せめて…」
「せめてなに?」
「とにかくイヤ。役所に手続きを…」


泣きそうになっている私をみて、
「じゃ、どんな名前にしたい?もうなにか考えたの?」
と、父の顔も口調もやさしい。


私はそんな父の態度に激励されました。
考えたよ。考えましたとも。いくつも。


周りの女の子は、「紅」という漢字が入ってる名前が多かったのです。羨ましかったです。
「紅旗」「紅太陽毛澤東」の紅ですよ、なんという逞しい字、なんという立場がはっきりしている名前!
あとは「文勝」や、「文慶」などの文化大革命を擁護する・賛美する名前も響きがいいな。なにしろそのまま「文革」という名前の子すらたくさんいるのだから。堂々として、革命らしくて、力強い。比べて私の名前の「俗世界に拘りなく」だなんて、人に名前の意味を聞かれたら、言えるわけないじゃない。


これらを思い出すと、私の気持が高ぶった
「“紅”と入れるの。私の名前に」
「紅?!」
「そうです。“慕紅”というんです、どうですか?」
私はこの名前にとても自信を持ってました。
紅という字なのに、“慕紅”!俗っぽくなく、文学の匂いしながら、紅を羨む気持ちがいっぱい…
父は黙っていました。
もしかして、父はちょっと悔しくなったのでは?だって、娘の私に負けたのは明らかだもの。
私は調子が乗ってきました。
「お母さんだって、名前を変えたほうがいいですよ。お母さんの当て字もお父さんが付けたんでしょう?“塵”なんて、ホコリの意味でしょう?名前にしてイヤよね。お母さんも遠慮することがないのに…」

母は編み物の手が止まって
「お母さんは別にイヤじゃないのよ、娑婆世界で、人間はしょせん埃のようなものに過ぎないわ」


「とにかくお父さん、私は名前を変えますから」
「そうか。紅か…」
父の顔はなぜか悲しそうでした。


父は役所に行きました。
私の名前を変えてくれました。
けれども“紅”の付く名前ではなく、当て字三つとも副詞で、やはり中国人には絶対にありえない名前でした。
その意味はモンゴル語で“さざなみ”です。


紅が付いてないけれど、でも発音もまあまあおかしくないですし、私は認めました。
あれからずっとその名前を使ってました。


初対面の中国人なら、私の名前を見て、必ず
「君は漢民族じゃないだろう」と聞いてくるのです。
「はい。私はモンゴル人です」と答えたことは数えきれませんでした。


父は、このやりとりを予想して、そのたびに私に自分の血を確認してほしかったのでしょうか。



私はまた顔を上げて、その迷い込んできた風船を探しました。
いつの間にか、風船は高い天井に沿って、小さいジャンプをしながら、入口の上の辺りの開いている窓の近くまで行きました。外の風に誘われたのでしょうか。
まだまだ寒いのですが、思えば立春も過ぎてしまいました。

あれは、寂しい早春でした。



……
紫伊という名前を見るたびに
「君は日本人じゃないでしょう」と聞いてくる方がいます。
昔と同じく、私は答えます。


けれど父は今の私の名前を知りません、知る由もないです。
私は日本の国籍と申し込む時に、どこか父のことを思い出して、日本人らしくない名前を付けたのかもしれません。