東府中の記憶

Aさんは用事で東府中に行かなければならないので、Yさんが交通手段を調べていた。
「東府中、東府中、ええっと、新宿から京王線で…」


東府中…遠い記憶にあった駅名だわ。そばにいる私は思わず遠くを眺め、しばらく考え込んでしまった。

雨・寒い・競馬場…


十何年も前に、東府中の東京競馬場でアルバイトをしたことがあった。
先輩に誘われ、あまり考えずにその仕事を受けた。
競馬場と言っても、仕事は競走馬とはまったくかかわりがなく、職員の食堂でのバイトだった。当時苦学生だった私たちにふさわしい内容の仕事だった。たまに馬がトラックに載せられる場面を目撃したりするけど。

さすが競馬場内部、ものものしい雰囲気と多重の警備が私に新鮮だった。
特別通行証を作ってもらって、胸に写真入りバッヂ、それでも入口で警察がさらに電話で職場に私たちの登録の存在を確かめるのだ。


職員の働く時間がバラバラのせいか、とにかくどんな時間帯にでも誰かが入って来て、カツ丼かなにかを注文して食べていた。ほとんど男性だった。やっぱり競走馬を扱うのは女性に無理でしょうか。
男の人たちはみんなゴムの長靴をはいて、おかげで食堂のレンガの床はいつも砂だらけ。
男たちはいつも黙々とテレビを見ながら速いスピードで食べてるのが印象的だった。


あっという間に冬になって、早朝からの競馬場の仕事はだんだんきつくなってきた。
冬の雨は本当に骨にしみる冷たさだ。まだ暗い中、始発電車に乗るため、先輩と人影のない街で並んで無言に駅に向かう。
街灯に照らされた雨は、氷のように光っていた。

同じ雨なのに、春か初夏の雨は、視覚からも聴覚からも優しさしか感じさせないのに、冬の雨は、たとえ温かい室内から眺めても、震えるほどの灰色の寒さが伝わってくる。同じ雨なのに。


北国生まれの私は、冬の雨は特に慣れなくて耐えられなくて、雪よりずっとつらかった。
やっとホームに辿り着き、でもやっぱり先輩とお互いしゃべらなかった。冷えていく体と闘うのが精いっぱいだから。


遠くから、始発電車がゆっくり移動してくるのを見て、なぜかいつも小さくため息をつく先輩だった。
車両の中は、信じられないぐらいに温かい。体がこの急に降ってくる幸せに驚き、さらに身震いして、歯まで連動する。


やがて筋肉や関節が少しずつ伸びてきて、体が素直に周りの温かさを受け入れてきて、でも、先輩とやっぱりお互い無口でいた。なぜかと言うと、お互い眠くなってきたのだ。


揺れて揺られて、長い時間が過ぎ、朦朧の中、頭のどっかに「東府中、東府中です」との寝言のような言葉が浮かび、急に目覚めた。電車は停まっていて、開いているドアに向こう側に、東府中との文字が目に入って、何が何だかわからないのはほんの0.1秒、私はもう次の行動にでた。先輩の腕を掴んで、その開いてるドアから飛び出した。
二人は転がるようにホームに“大”の字になった、その途端、うしろの電車はドアを閉じ、次の駅に向かって走り去ってゆく。

その姿のままでしばらく先輩も私も動かなかった、半分頭がまだ訳わかってないのかもしれない。
そして、視線が合って、笑い出した。その日初めて交わす言葉、いいえ、言葉がなく、だただた笑って、笑いが止まらなかった。



冬が過ぎる前に、私はそのバイトを辞めた。