ベタ物語

あのベタ、見ているうちに、今までの“優雅に静寂を味わう”のが、だんだんただの寂しそうにしか映らなくなってしまった。
餌を食べる時も、ベタはメダカなんかと違って、そんなにガツガツした様子はなく、その“行儀のよさ”も今になって、気力のなさに見えてしまう。

これはダメだ。水槽にもう一匹仲間を入れてあげないと。わりと大きい水槽だし、ヒーターで水温も保って、濾過装置も絶えず動いているし。


ベタ1号、待っててね、素敵なベタ2号を連れてくるから、お楽しみに。


ベットショップの魚コーナーで、店員さんと相談しながら、メスのベタ一匹を買いました。
“闘魚”と呼ばれるベタは、オス同士だと、相手が死ぬまで決闘するらしいから、どんなにオスベタが穏やかな美しさの持ち主でも、二匹を同じ水槽で飼っちゃいけないのだそうだ。


しかしオスと比べ、メスベタ、なんて地味ですこと!
形は至ってシンプル、色は至って暗く目立たない。同じベタと呼ぶのが不思議ぐらい。


水槽に楽しそうに泳いでるメスベタたちをじっと見つめて、全体が黒っぽく、ヒレあたりに深い紅がかかっている元気な一匹を指さし、「これ。これをお願いします」とそばの店員さんに伝えた。
容器に水槽の水を少し汲んで、小さい網でそのベタを取り出し、すぐ容器に入れ、今度はその容器の水とベタをビニール袋に入れ替え、酸素を注入、パンパンになった袋を輪ゴムで縛った。
店員さんは、それらの手付きがとても熟練している。メスベタは、たぶんまだ自分に身になにが起こったかすら知らないうちに、もう袋ごと、蛍光灯に照らされてるレジのそばに置かれていた。


お金を払って、「お世話様でした」とお礼を言って、店を出ようとした私に、
「あのぅ、オスとメスと言っても、必ず喧嘩しないとは限らないから」と店員さんがほほ笑んで言った。
「ええ。そうでしょうね」と私も微笑む。(人間だってそうだし)
「あのぅ、相性というか、合わないなら、やっぱりいじめられて、死んじゃう場合もあります。もちろん、死ぬのはメスのほうですが」
「へぇ〜」。(人間より難しいかも?)



「ベタは?ママ、ベタ買いに行った?」
うちに帰った途端、ふみに問いかけられた。パパから聞いたみたい。
新聞紙にくるんでるパンパンのビニール袋を取り出して見せた。
ふみはちょっと困惑した顔。
この前へ前へと一直線としか泳がない地味なヤツが、あの華麗なドレス(オスのくせに)で優雅な佇まいのベタさまと同じベタだということに、ふみは戸惑っているのでしょう。


黒いメスベタを水槽に入れた。
餌を少し入れ、これでよかった。これからお二人は、いや、二匹は、静かな、だけど温もりのある生活を始めてください。


翌日、水槽を見てみたら、黒いメスベタは、ひっそりと隅っこにいた。
頭をさらに隅っこの方へ押しつけ、まるで穴があったら水槽から出たい、といったよう。
一方、オスベタというと、いつもの高貴と優雅。入れられた餌をゆっくり食べて、たまに急なUターンで、大きいしっぽを紺色な煙みたいに見せてくれる。


このメスベタは、まったく動かないな。どうしたんだろう。このオスベタが嫌いかな、同じ空気吸うのもイヤ、あ、魚の場合は、同じ水に浸しているのもイヤだとか?
とにかく食べないとダメじゃない。おいおい、一粒でもいいから、食べて。

けどメスベタは、やっぱりその隅っこから離れようとしない。
まあいいか。見てないうちに食べてるかもしれないし。


その翌日、メスベタは、さらに沈んで水槽の底へ、口がパクパクしているのを確認できていないなら、飾りの偽ベタかと思うほど。
割りばしで餌を口元まで届けても、食べようとしない。
あれ?このヒレ、こうだったっけ。オスのヒレほどはないが、でもこんなにぼろぼろだったっけ。
メスベタ、明らかに弱ってきている。


さらに翌日、メスベタの鱗まで、ぼろぼろになり、底に沈んだっきり。
メスベタ、死んでしまった。


いじめが本当にあった?うん、鱗もヒレもぼろぼろだから、いじめられてるとしか答えがないでしょう。
でもあの優雅なオスベタが?あんなに動きがゆっくりなのに、どうやってここまでぼろぼろさせるのかな。やっぱり半信半疑。


いや、このまま、謎にしておくわけにはいかないわ。
またあの店に出かけ、
「これ。これをお願いします」と、私は水槽の中で元気そうに直線でスイスイと泳いでる一匹のメスベタを指さす。
店員さんは例のごとく、小さい網でそのベタを取り出し、水槽の水とベタをビニール袋に入れ、酸素注入、パンパンになった袋を縛った。


「あのう、やっぱり相性が…」と店員さんはほほ笑んで言った。
私は笑えない。だってメスベタ、あの黒い中深い紅がかかってるメスベタが、まだ写真も撮っていないうちに、死んでしまったのよ。


「オスベタというのは、そういうもんです。だから最初は瓶か、透明な容器に入れたまま、水槽に入れてみて、オスベタが中のメスベタを見て、攻撃するか媚びるか、相性を試してみて。う〜ん、やっぱり仕切りの網に入れるのが一番無難かな。」
「網?」
「こういうヤツだけど、水槽に引っ掛かけて、メスベタを中に入れます。網が白いから、オスベタには中が見えないから…」店員さんは四角い枠のついてる網を見せてくれた。
「これはいいですね。これなら絶対だいじょうぶですね」
「はい。最初から相性がいいならいうことがないですけど、ダメでも、そのうちオスがメスが好きな時期が来れば、仲よくなれますよ」
とりあえず網に入れ、その時期が来たら、網を外して、それで心配もうないですね。
「あのお、たとえ仲よくなっても、メスが卵を産んだら、またすぐメスを網の中に入れないと、またやられるから」
「やられる?今度は誰に?」
「オスです。ベタはオスが卵を守ります。卵を産んだメスは、オスにとって、もう用はないですから、攻撃して、死なせる場合も…」


?! どんな人生観というか、価値観の持ち主なの?!


オスベタというのは、先祖から心が凍りついて、愛情だの、温もりだの、その氷を溶かすことできなく、自分のことしか考えない冷酷なものだね。
で、その先祖もどういう理由で心をそこまで凍らせたのかしら、どんな深い傷でそこまで
魚間不信になったのかしら。


そうこう考えてるうちに、もう帰って水槽の前に立っている。
店員さんの話を思い出して、まずビニール袋のままメスベタを水槽に入れてみた。
すると、信じられない光景が…。
オスベタ、それまで見せたことのないスピートで動き出した。
袋の周囲を、猛スピートで泳ぎ、袋を突っつき、ヒレを広げて威嚇、目玉まで飛び出ているに見える。
袋の中のメスベタは、明らかに怯えてる。


唖然とした。なるほど、あの黒いメスはこうやって死んでしまったんだ。
オスベタにしては、せっかく一匹を追い出した(この水槽からではなく、この世から!)のに、間もなく、また来たぁ?!っていう気持ちでしょう。


これは一緒にするのは無理だな。メスを網に入れ、同じ水槽だけど、網の中だから、どうしようもないから。それに店員さんは水槽の中からは網の中が見えないと言ってるし。


一応安心。


オスベタ、なんだか哀れに感じた。