最後の言葉


蓉は、お母さんと、遠くの大きい町にいるカメラマンのお父さんのところへ行くことになりました。
戸籍や住民票は自由に移動できない時代ですから、それまで蓉のお母さんは何回も何回も申請をしていました。
そのたびに、蓉は私に
「許可が下りたらどうしよう。今さらお父さんのところなんかに行きたくないもん。知らない町だし、友達もいないし」と不安そうに言うのです。
「許可下りないよ、きっと。だって、お父さんのいる町は遠いでしょう?列車だって丸一日かかるっていうんじゃない。きっと国はそれを考えてくれて、許可ださないよ。遠いもん」
蓉はいつも私のこの言葉でほっとするみたいで、深く息を吐いて、途端に顔が晴れるのです。
登校道の待ち合わせ場所で、普段あまり表情が豊かじゃない蓉が、もし遠くからもう手を振って、笑顔で走ってくるのなら、第一声は「不許可だって!」に違いないです。
蓉の肩に斜めに掛けているカバンもお尻あたりで愉快に跳ね返って、中の教科書や筆箱たちがバタバタとはしゃぐのです。
こうやって何年も過ぎてしまいました。
蓉のお母さんはやっと諦めが付いたようで、
「今回は最後だから。お母さんはもう申請出すの疲れた。今回またダメならもういいわ、ずっとここでお母さんと暮らそうね」と溜息をついた。
それを聞いて、蓉も私も安心して、でも嬉しさを隠さなければならないのは、二人ともわかっています。

この最後の申請が、通ったのです。
まだ現実を消化しきれないうちに、蓉の家は空っぽになり、私はもう蓉たちを見送りする蓉のお母さんの同僚の車に乗せてもらって、町の端っこにある列車駅に向かっていました。
前の方に座っている蓉のお母さんは、同僚と大声で喋ったり笑ったり、大きい笑窪はずっと凹んだままでした。まるでこれからおいしいチョコレートがただでもらえるかのようです。

私と並んで一番後ろに座っている蓉は、窓の外を滑ってゆく町の景色を見つめています。
ぼんやりと外を眺めている私と違って、蓉の目には必死さがありました。
煉瓦の一枚も、店舗の前に掛けてる提灯の一つも見逃したくないと、その目に全部焼きつけようとしているようでした。
しばらくして、蓉の視線が収まって、下を向いたまま、
「手紙を書くから」と呟いた。
私も下に向いて、
「うん。お父さんに写真を撮ってもらったら、送ってね、手紙を一緒に」
「うん。あなたもね、写真」
「私ほら、写真館に行かないとできないから…。お母さんからお金をもらって写真館行くよ」
蓉も私もまた黙って外を眺めた。
これが私たちの住んでいる町なのかな。なぜか目の前の街並みは、うそっぽくて。芝居セットのようにすぐ取り壊されそうで。朝、目覚める時までの夢のようにむなしくて。誰かにこれは本当かどうかを教えてほしくて。
私は蓉の横顔をみた。
口をつぐんでいる蓉の、下のまぶたのぎりぎりのところが一瞬光った。だんだん光っている点がたくさん集まって、震えて、溢れそうな時、また少しずつ溶けて消えました。
蓉は涙をこぼさなかった。
私も。私は泣くどころか、なぜか目も喉も、心まで渇いて乾いて、ひびが入りそうでした。
小さい町を、車は、あっという間に通り抜けて、にぎわっている列車駅の前に止った。

蓉たちの荷物は手早く列車に運ばれ、オトナたちはホームに立って、さらに談笑しています。
蓉のお母さんは、みんなと握手したりして、甘い笑顔はチョコレートを食べたあとのようです。
蓉は黙ったまま一人列車に乗り込みました。
私はその姿を追いながら、ホームを歩いて、蓉の座った入口から三番目の窓の前に立ちました。
車内の蓉は不安そうにあたりを見まわしている。隣席の男の人が黒い大きいカバンを蓉の頭の上の棚に置いた。それにびっくりしたようで、蓉は窓の方へ少し移動した。
窓の外に立っている私の目と合った。
二人の目は合ったり、泳いだりして、蓉はまた車内を見渡していた。

急に蓉は窓ガラスに近づき、笑顔を見せ、口で何かを言っている。
どうしても、その口の動きが読み取れないので、私は焦りました。
彼女の口は、同じ動きを繰り返し繰り返ししてる。どうも一つの短い言葉のようです。

いつの間にか蓉のお母さんはみんなと別れて列車に乗っていました。
お母さんは微笑んで窓ガラスを軽く押し上げた。
車窓は開けられるものだと、蓉も私もびっくりした。
私は窓に近づき、蓉にその言葉を目で尋ねた。
蓉が伝えようとした最後の言葉は二文字で、それは同級生の名前でした。
二人ともあまり親しくない女の子で、その日、両親と一緒にどこかに行くため、たまたま蓉と同じ車輌に乗っていたのです。
ベルが鳴って、列車の先頭から、白いフチのある黒煙がもくもくとやってきて、蓉のいる車窓は埋もれそうになった。
シャーッという音と共に、たくさんの白煙が置き去りにされて、列車は動きだしました。
蓉も私も、その白煙を通して、平静な顔で手を振りました。

蓉とは、幼稚園からの付き合いでした。
姉が卒園して、一人ぼっちになり、庭の壁に靠れて、楽しく遊んでいるよその園児たちをぼんやりと眺めてばかりいる私、同じく壁に沿って座ってばかりいる蓉は、お互いに気づいたのでした。
蓉のいかにも臆病者そうな顔で、でもどこか簡単には服従しないという頑固さに、私はなぜかすぐ親しみを覚えました。どうやって言葉を交わしたのかはもう覚えていないけど、ともに友達がいない、しかも作ろうと努力もしない二人は、仲良くなりました。

それからの幼稚園生活は、だいぶ心強くなりました。
蓉と一緒に、いつかかってくるかわからないイジメっ子の脅威に耐えて、午後のおやつ時間まで頑張るのです。
毎回がっかりさせられるおやつですけど、それを食べたら、二人は一緒に幼稚園から脱走します。
庭の門から何かを覗くように、まず頭を、それからだんだん体を外に乗り出して、一気にダッシュするというパターンが一番多かったです。壁を越すなどのやりかたもあったが、成功率は低かった。
ほとんどの場合、脱走しても、正式の下園時間とたいした変わりはなかったのです。
でも二人は脱走しないではいられなかった。微力ながら、なにかと抗争したかった。
園から脱出して並んで走る二人は、振り向こうとしないのです。
無事に成功したと確信して、やっと立ち止まって、息がおさまってからの話題は、永遠に翌日のおやつの内容への妄想です。あらゆる美しい食べ物の名前を一通り数え、何にもなかったような顔でそれぞれのうちに帰ります。

小学校に上がると、また蓉と同じクラスでした。
さすがもう脱走はしていない二人でしたが、ウキウキしている同級生たちとは何かが違っているという感じは幼稚園の時と同じでした。
ぞろぞろ行くたくさんの同級生の姿がある大通りの登校道を避け、ある住宅区を通り抜ける近道を二人はよく利用するのです。そこで悪ガキ集団と遭遇するのは、よくあることでした。服のポケットを調べられ、期待しているものが出てこないと、カバンに土を入れられるのです。
二人とも黙ってそれらに耐えて、「もういい、行け」と言われ、二人手を繋いで走りだす。
並んで走る二人は、振り向こうとしないのです。
無事に逃げることに成功したと確信して、立ち止まった二人は、息がおさまると無言でカバンの教科書を取りだし、頁に入り込んだ土を払い落す。きれいになったカバンをまた背負って、「明日はきっとだいじょうぶ、もう彼らとは会わないよ」と、全く懲りなくお互いを励ます。
自分たちは弱い存在と充分承知している、戦うことのできない私たちの唯一の強さは耐えることでした。

放課後に、蓉と、野良犬を追っかけたり追っかけられたり、建築現場にまた人骨が掘り出されたと聞くと、走って行って無造作に置かれている骸骨たちを見たり、何もやることがないと、ただ落日を眺めたりしました。
「私たちは祖国の希望・私たちは祖国の未来・私たちは祖国の花壇の蕾…」という、よく学校で合唱する歌があります。
“私たち”って、誰のことを歌っているのか、少しもピンとこない私でした。
そういう自分に、消沈してしまいそうな時もあります。でも蓉の少しも迷いない歌い方に、私は立ち直るのです。
“弱虫”同士、いじめられっ子同士、自分たちの弱さを認めながら、自分たちらしい強さを精一杯出し切ってました。蓉と一緒に過ごした歳月は、それなりに楽しかったのです。

蓉を乗せている列車がまだ完全に視野から消えていないうちに、オトナたちは、もう違う話題で盛り上がりながら、ホームから離れました。私もおとなしく付いて、車に乗せてもらいました。
物心がついてから、初めて味わった“別れ”でした。「元気でね」のような言葉をまだ言えないという年齢でもないのに、二人はあのような言葉で別れました。それで、よかったのです。蓉もきっとそう思っています。
それからは蓉と二度と会えませんでしたが、手紙はもらいました。
故郷の夏よりずっと暑いというようなことが書いてあって、約束通り写真が同封されていました。
日傘をさしてる彼女は、髪もだいぶ伸びていて、もう器用に笑顔を作れるようになりました。