増上寺
朝起きたふみは、ベランダのあのてんとう虫(図鑑で調べたらキイロテントウという種類)がどこかに飛んで行ってしまったことに、かなしそうでした。
「泣いてるの?ふみ」
「泣いてないよ」
少し前、ベランダから見えた高い高いクレーンがいなくなったことには、相当落胆した様子でした。
しばらくして、気持ちを整理したみたいで、「ぼく、あのクレーンが恋しい」と言って、(ほっほ、恋しいかー)、現実を受け止めたようで、あれから、あまりクレーンのことを口にしなくなった。
「あのてんとう虫、また戻ってくるよね?ママ、戻ってくるよ」
戻ってくるとも。
「これは…」
「あのね、ウルトラマンの戦車なの」
へ〜それらしく見えるわ。
「ふみ、今日は増上寺にいこうか」
「じょうじょうじ?」
「ぞうじょうじ。観音さまの第21番なんだ、じょうじょうじは」
調べてみたら、じょうじょうじは地下鉄2回乗り換えて、あまり時間かからないでいけるみたい。
霞が関で日比谷線に乗り換える時、うっかり反対車線に乗って、一駅でやっと気づき、「ごめんねふみ、でも向こうの乗ったらすぐよ、ほんとうよすぐ」
「また間違えたね。ママは魔法遣いじゃないじゃん。魔法遣いこんなに間違いしないよ」
「いやいやいや、わかってないな〜 魔法遣いは、もっと大きいところで活躍したりするから、乗り換えなんかで魔法を使わないわよ、もったいないもったいない」
霞が関に戻って、日比谷線に乗って、日比谷駅で、三田線に乗り換え、御成門で降りた。
どなたの手作りでしょう。分かりやすくてあたたかい。思わずカメラを向ける。
スカイツリーを何回も見てからのせいか、今東京タワーを見ていると、なんだか、素朴な小さい灯台に見えてならない。
スカイツリーはまだ建設中なのにね。
洋館が大好きなわたしはすぐ気を取られる。
「ふみ、お参りしたら、向こうに渡って、あの洋館を見たい」
「いいよ」
よかった。さっきの日比谷公園に遊びに行こうとの話し、ふみはもう忘れたみたい。ラッキー。
立派だわ。
境内、広いわ〜
大きいカメラをぶら下げてる観光客、
一家正装して、着物姿の若いお母さんが赤ちゃんを抱いてのお宮参り、
喪服での法事の人、
お墓参りの家族連れ、
さまざまな人が境内にいた。
増上寺の観音様、ずいぶんと古い石像で、損傷されている。お参りするところからすぐ近くに立ってて、きっといろんな身代わりになって下さったため、こんなにもぼろぼろになったのでしょうか。観音様、永遠に慈悲の代名詞のような存在ですね。
どこまでも続く水子供養。
本堂にもお参りをして、
「小学生になっても、高校生になっても、大學生になっても、礼儀正しくできますように守ってください」ふみは手を合わせて仏様に向かって申し上げた。
これはまた何を思いついたのでしょう。
(礼儀正しくすることは、ご自分で努力してください、仏様にお願いすることはない。それに、中学生が抜けてる、どういうことでしょう。中学生も礼儀が大事だ。)
ーー勝手に仏様の代弁してみました。おそれいります。
ありゃま、これは大発見。
朱印帳をもらい、なんとかふみの宝探しを中断させ、じょうじょうじから出ました。
「あ、団子虫だ」
あ〜ふみはまたこんな小さいものに目が行っちゃうんだから。
謎の洋館に辿り着いた。「ぼく、見てあげる」ふみは階段を登って中を覗きこむ。
「ふみ、だれかいる?どんな感じ?」
「だれもいない、真っ暗」
そう、だったらあたしも行く。
大の大人が知らない窓から中を覗き込むなんぞ、ママのすることじゃないじょ。
「ほんとうだ、だれもいないね、ここは、お店かな。暗くてよく見えないね、なに屋さんかな、ふみ」
「うん。あ、光ってる、あそこ、“1”が光ってる、なにもないのに!“1”だけ光ってる!」
「ほんとうだ、妖精かもしれないよ、ふみ」(煽っちゃだめよ、あれはエレベーターだよ)
あとで調べたら、1940年代の洋館で、今は高級フランス料理屋さん。日曜がお休みで、(よかった〜)
道草して、いつの間にかもうお昼ご飯の時間になってる。
お蕎麦にしようかな、この蒸し暑さの中、冷たいお蕎麦がいいよね。蕎麦屋が現われるのを期待しながらふみと歩いてる時、ふみは牛丼屋さんの前に立ち止まった。
「牛丼屋さんにする。牛丼食べたい」ふみの指さしてるのは、うなぎ丼のポスターだ。
「うなぎだけど」
「うん。うなぎ、ぼくこのうなぎ丼食べるから」ふみはウキウキした顔で自動ドアーに入った。
ちょっとー、冷たいお蕎麦は?牛丼なんか食べたくないよ。今日はお肉を食べる心の準備がないの、いきなり言われても、食べれるわけがないんだから。
ふみはもうカウンターに腰をおろした。店員さんがくれた冷たい水を、にこにこして飲んでるではないか。
「ぼくこのうなぎ」勝手に注文するんじゃない。
「あ、わたし、わたしは…」店員さんの期待している目に見られて、慌ててメニューを見るわたし。
あ、鮭定食があるわ。汗もかいたし、塩鮭がいいかも。あ?写真には、鮭・ご飯・お味噌汁以外に、牛丼の上に載せる牛肉が写ってるね。
「ふみ、牛丼も食べられる?」
「いらない」
あそう、では下の写真に写ってるこれは、焼肉らしいね。
「やきにくです」店員さんの確認を取れて、「ふみ、やきにくなら食べる?」
「うん、食べる」
「じゃ、この焼肉の下さい」
わたしは鮭とご飯、その焼肉をふみに。悪くないじゃない。
ふみのうなぎ丼が出て来た、うなぎが軟らかそうでおいしそう。
さあ、わたしの定食も出てきたよ〜
…。これは、ご飯と、味噌汁と、焼肉一皿と、あとは、ないじゃん!
そうか、鮭、あとで出てくるか。
こない。
「あの、鮭は…」
「鮭?焼肉定食ですよね?」
焼肉定食?! 焼肉は、鮭のセットについてる一品のおかずじゃなくて?!
慌ててメニューを確認、あ”−−
ふみはというと、おいしそうにうなぎ丼を食べてる。お箸が豪快にできないのか、珍しく、出されたスプーンでうなぎとご飯を口に運ぶ。
焼肉を食べてみたが、やはりダメだった。心と胃腸の準備ができない。
「ふみ、焼肉食べる?」
「食べる食べる」。タレを漬けて焼肉をふみのお椀に置くと、ふみはパクリっと食べてしまった。
「おいしい」、ふみは手の甲で口を拭きながら、「ママ、お肉のお皿ここに置いていいよ、ぼく自分で取るから、あ、タレも、ここに置いていいよ」ふみは寛容な顔で自分の前に小さいスペースを指さす。
うなぎ、焼肉、ご飯。
うなぎはスプーン、焼肉はお箸、ふみは忙しくなってる。
白いご飯と小さいお味噌汁しかないわたしの気持ちをちっとも察してくれません。
いくらふみを横から見つめても、わたしの哀れな視線もまったく感じずのふみでした。
「うなぎのタレが付いてるご飯、少し食べていい?」
「いいよ」、ふみはやはり寛容な顔で言った。
いいの。ふみはこれで夏バテならずに済む。うん。白いご飯と味噌汁、あと少々のお野菜があれば、宮沢賢治の憧れの生活じゃない。
「あの、ポテトサラダください」わたしはメニューの写真を差して店員さんに明るく言う。
「あれは、季節的にもうやってないんです、すみません」
はい。おとなしくご飯をかじって。
しかしじょうじょうじは、広かったな〜