お紅茶

今日は穏やかな晴れでした。


朝食に、夕べ作ったマーマレードをパンに塗って食べました。
程よい苦み、それと氷砂糖のすっきりとした甘さ、とってもおいしい。

ふみは食べないが。
小さい時のふみは、すっぱいミカンも、レモンまで、好んで食べてましたけどね。顔をしかめながら。


この前、紅茶を入れて、ふみにも薄めの紅茶にミルクをいれて、渡しました。ふみの初めてのミルクティです。

紅茶は、暮れにいただいた上等なものです。


ふみの初めての紅茶、いいもの飲ませたいんだ。


父には、紅茶が欠かせないものでした。
中国の南部に出る「滇紅」という上等の紅茶を、どうにか入手して飲むのが、父の楽しみなんです。


父のお茶を飲むのは、こだわりが多い。
まず、水。

水道水が薬のにおいするからって、幼いわたしと姉を、ちょっと離れているところの湧水を汲みに行かせるのは今でもはっきりと覚えてます。


次はお湯の温度。
必ず沸騰したのしか使わないのです。
なので、ヤカンで湧かして、ヤカンの汽笛が鳴った途端、ヤカンを火から下ろすと、父はどこからか駆けつけてきます。まだ充分湧いてないじゃないか、と。


長い長い汽笛を聞いて、これはヤカン全体のお湯が充分湧いたんだなと判断して、やっと火を止めるの許されます。


次は、茶葉の入ってる容器にお湯をいれることなんですが、一気にいっぱいまで入れるのも、だめなんです。

最初は茶葉ひたひたぐらいの沸騰したお湯で、すぐ蓋を閉め、むらします。


茶葉が充分開いてから、お湯を注ぐ、これでやっと飲み頃になります。


わたしの記憶の中で、父のお茶は、この作法に従って、怠ったことは一回もありません。


父は食べ物と飲み物には、ほんとうに厳しかったです。
美味しくないものや、素材が劣っているもの、昨日の残り物、新鮮ではないものは、たとえいくら空腹でも、食べないのです。

食べものや飲み物は、ただ生命を維持するためのものだけと思っていないからです。

食を楽しむ、食を通じて自分の肉体だけではなく、精神の面も養う。
いろんなセンス・品格・教養を、食を通して磨くことが、父の求めていることだと、わたしは理解しております。


父はわたしの会った人の中で、本物の美食家だと、わたしはそう認識しています。



もっぱら紅茶が好きな父は、わたしが送った日本茶を、必ずガラスコップで飲んでいたことを、父の葬儀の時、父の学生から聞いたのです。

ガラスコップを通して、あの美しい緑を楽しみながら、日本茶を頂く父を想像して、口元が緩むわたしがいる。

その父、今月の10日が祥月命日でした。
もう他界して、どれぐらい経ったのでしょう、パッと言えないぐらい、歳月は過ぎてしまいましたね。




ふみは今日も偉かったよ。明らかに眠いのに、頑張ってお勉強をしました。
塾からの宿題、わりと分厚い束のを二つもやりました。


風呂あがり、ふみ、はだかのまま、またまた寒い部屋に直行。
「ふみ!」とわたしの声で、ぎりぎりのところで止まった。


「ふみ、もうなんて言ったらいいの?どう言ったら聞く?」
「なんで玩具をそっちに置くの?」


…。ま、そう言えばそうね。けど、しょうがないじゃない、表に置きっぱなしだと、散らかして、気持ち悪いじゃない。何回も言ったんでしょう、取りたいものをパパ、ママに言って、或いはちゃんと服を着て…。


あ〜、この問題、暖かくなったら、自然に解決かしらね。そういう意味でも、春よ、早く来い!